土屋きみやす−ツッチーレポート

2015年07月の記事

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2015年7月31日(金) 17:39

学のテスト採点とランキングが終わり、8月は横浜で講演会が。

 大学の春季講義が7月17日の第15回目で終わり、その最終日に筆記テストを実施しました。
 いつもながらテスト問題の作成も大変でしたが、私にとってはそのあとの採点とランキング(成績と出席率から序列決め)が大変なのです。

 ずっしりと重い答案用紙を、無くしたり、どこかに置き忘れないように注意し、家に持ち帰り、採点を始めました。
 まず心がけたことは、学生の答えに目を通す前に点数の配分を決定したことです。
 その理由はあくまでも客観的な採点をするためであり、試験問題をつくる際、各設問の重要度で点数配分をしたからです。

 今季は2時限目(受験136人)も4時限目(受験43人)も、大学側の求める「平均的な成績である合格(良でB+・B ・B−)が受講生の30〜40%の範囲が基準」という1つのランキングバランスにうまく収まりました。
 加えて、「極めて優秀な成績」であるAAは2時限目で2人、4時限目で1人が獲得いたしました。(100点満点で出席率100%)
 従って、100%出席で98点でもA+になってしまいましたが、全体的には皆さん真面目に講義を受講しており、テストに向けても頑張ってきた、という印象を受けました。

 答案についですが、まず2時限目。
 @ 黒板に書いたのみで、プリントでは配らなかった『史記』の言葉「食人之食者 死人之事」を、プリントで配った言葉のほうを勘違いして書いた。
 A 入札=選挙・投票が案外書けなかった人がいた。
 B 正解率が高かったのは、「林子平・高野長英・渡邊崋山」と『藩論』に書かれている主権在民論。
 C イージーミスか「万国海律全書」の「律」が「津」になっていた。
 D 重点配分を決めていた田中正造の直奏文にある具体的な6項目が正解でないために全体の得点が厳しい結果になった。
 などであった。

 4時限目は
 @ 案外易しかったところは2時限目と同様だった。
 A イージーミスの「律」も「津」や「洋」と間違っていた。
 B 「ジョン万次郎から多大な影響を受けた〜」で早とちりしたのか、回答を「坂本龍馬」と書いた人が多かった。
    後半に「薩摩藩主の名を挙げよ」とあり、正解は「島津斉彬」。
 C 日米修好通商条約の不平等な条文では、不平等でない回答や、正解なのにいろいろと書き加えてしまったために間違いになってしまった。
 などが、見受けられた。

 7月31日の午後5時をもって得点登録が確定となるが、一番心を痛めたのは出席率は70%以上なのに受験しなかった、若しくは答案用紙を提出しなかった学生である。もちろん評価不能であるから不合格(Z)となるが、今季は案外多かったのがとても残念である。

 また、答案用紙の上に「学科・専攻、年次、学籍番号、氏名」を書き込む欄があるのに欄外に書いて提出した学生が多かったが、これは最後に私が確認のために言ったので書いたとすると、もし言わなかったら彼らは氏名など不記載のまま提出したのであろうか?危なかった。

 以上で、採点とランキングについては終える。

 最後に、8月21日夜、横浜駅近くの「かながわ県民センター」で「横浜中央木鶏クラブ主催」による、私の講演会があります(別紙案内文参照)。
 是非ぜひ、ご来場下さい。

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2015年7月11日(土) 16:24

春季大学講義もいよいよ大詰め。

 大学の春季講義もいよいよ最終段階を迎えました。
 来週の第15回目はまず30分講義をして残りの1時間でペーパーテストを行いますので、昨日の10日(第十四回目)が実質的な最終講義となりました。
 昨日、教務課に試験問題を届けて、印刷を依頼してきました。

 さてそれでは、13回目と14回目の授業内容をここにアップいたします。
 第13回目は「明治新政府でも登用された榎本武揚への再評価」というタイトルで、五稜郭だけが有名な榎本武揚の、実態に迫った講義(のつもり)でした。



 幕臣(旗本)→オランダへの5年間留学→帰国後の徳川幕府の海軍での働き→蝦夷共和国建国・選挙で総裁に→五稜郭での戦い→切腹させてもらえず降伏→投獄→明治新政府に登用→大臣等で活躍。
 長崎海軍伝習所でカッテンディ―ケに高く評価され、帰国後に徹底抗戦を主張し、共和国を建設し、(その才能を死なすのは忍びないと考えた)官軍の黒田才介(清隆)に説得され降伏し、後に明治新政府で活躍した彼を、私は決して裏切り者とは思わないし、むしろ立派な人生を全うしたと考えている。

 最後に福澤諭吉の「瘦せ我慢の説」に反論して、少しく私の見解を述べました。
 要するに福澤諭吉は、幕臣ならば、幕府崩壊以降は、「遁世出家するか、社会の暗処に隠して、生活を質素にし、一切万事控え目にして 云々」と言い、明治新政府で特派公使や大臣に任ぜられた榎本を批判しているのである。
 この「瘦せ我慢の説」は、勝海舟に向けられたもので、後半で「勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまた序(ついで)ながら一言せざるを得ず」と言いながら結構強く批判しているのである。更に文中で幕府の軍艦「咸臨丸」が清水港で官軍に攻撃された時の戦没者の慰霊碑に榎本が「食人之食者 死人之事(ひとのしょくをはむものは ひとのことにしす)」と記毫していることに言及しているのである。
 これに対して、榎本は言い訳も反論もしなかったと思うので、私が敢て榎本の心を忖度して見た。
 この『史記』の言葉の「食」を考えてみる。
 福澤諭吉は単純に「食を食む=徳川から俸禄を貰っていた」という視点であるが、榎本は徳川幕府崩壊後に共和国建設、その後の日本は明治新政府、という歴史的事実と、彼のその時その時の存在と活躍から、この場合の「食」の提供者とは、大きな視点での“国家”だったと考えているのである。
 どうであろうか?お読み下さった皆様はどうお考えでしょうか?

 私は、福澤諭吉より榎本武揚のほうがはるかに大人物だったと考える。(慶応義塾関係者の皆様ご免なさいね?)

 私にとって、勝海舟と福澤諭吉の事はどうでも良い。
 彼らの咸臨丸での太平洋横断時の確執を読むと、どっちもどっちの人物だからである。

 閑話休題。

 さて、第十四回目であるが、ここでは「政治は最高の道徳であるという観点から“田中正造”を考える」というテーマで、その全人生を、自由民権運動と、足尾鉱毒事件の解決にささげた田中正造として採り上げた。



 講義の中心は田中正造の天皇直訴のその文章(謹奏・直奏)を皆と共に読み込んだ。(資料)
 資料は読みにくいと思いますが、幸徳秋水が筆を起こした(原案)この文章を是非お読みいただきたい。



 現代に榎本武揚や田中正造のような政治家は、存在しない。
 更に今の総理大臣は長州の安倍さん。それも、吉田松陰先生や久坂玄随、高杉晋作の足元にも及ばないどころか、爪の垢を煎じて飲んでもらいたい長州人である。

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2015年7月2日(木) 12:46

大学講義もいよいよ後半に入りました。

 全十五回の大学の春季講義も後半になりました。
 第十五回目はペーパーテスト実施日ですので、本当にあと数回となりました。

 今回のブログでは、第十一回目の「遣米使節団の小栗豊後守忠順について」の資料(前半の3枚)と、第十二回目の「幕末の日本、及び外国人の日本人観」(後半の3枚)の資料をそれぞれアップさせていただきますので、恐縮ですが通読してご覧頂ければ幸いです。








 なお、講義内容の概要と講義の進行を記したレジュメをいつもここにアップしないのは、毎回レジュメに関しては、レジュメそのものを次回用に更新してしまうため、残っていないのです。

 それにしても、明治新政府や明治以降の歴史ではほとんど話題にならなかった徳川幕府の優秀な官僚(幕臣)と、彼らが行った外交の素晴らしさを少しでも学生や皆さんと共に理解したいと思い、この講義を続けさせていただき、ブログにもアップさせていただいております。

 今、講義と並行して改めて吉村昭の小説『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』を読んでいますが、川路聖謨(としあきら)やプチャーチンの人間性とその魅力、そして彼らの立派な人格に改めて驚いております。
 また、安政の大地震や下田を襲った大津波に今回の東日本大震災と大津波を重ね、更に我が国固有の北方領土(第十三回目講義予定の主役・榎本武揚が行った「千島・樺太交換条約」までの樺太のほとんどと国後・択捉・歯舞・色丹の四島)の正統性なども考えております。








 それにしても彼らと比べて、最近の自民党の三流以下の政治家(マスコミ批判や沖縄に対するいらつきなど)や、ロシアのプーチン(権力者の悪い見本のような政治家)には、失望の毎日である。

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