土屋きみやす−ツッチーレポート

2016年02月の記事

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2016年2月22日(月) 16:25

甘利事件について。その4.

 いろいろと甘利さんとの事を思い出すきっかけとなった今回の事件もニュース性としては薄れてきたのか、ほとんど話題に上らなくなってきた。
 「秘書ってそんなに偉いの?」という声が聞こえてきたが、あくまでも秘書は秘書であり、今回の場合の秘書は将に「虎(甘利大臣・代議士)の威を借りた狐」であり、その威を借りてのURに対する圧力や業者に対する要求(これらはあくまでも伝聞推定ではあるが、民主党の質問等にも取り上げられている20億の金額提案や高級車の要求の話など)である。
 今後は、国会での証人喚問の有無や地検特捜部の動きであろう。

 ところで、過去に甘利さんの秘書を務めた人たちも他人事とは思えない複雑な気持ちで事件の内容や推移を見守っている事と思う。
 甘利さんが若かった頃は秘書のほうが代議士より立派に見えた佐川さんや森田さん(後の海老名市議)、その後の真面目な山口さんや福田さん、横浜市議になった憎めない男の酒井太君、そしていつも頑張っていた内藤君、最近では一生懸命秘書を務めていた市川君(藤沢市議から現在は県議)などが私の思い出に残る秘書であった。

 選挙では、やはり厳しかった(冨澤さんに負けた時だったか?)時の印象が強い。
 私が「田中真紀子さんのように比例との並立を断って、不退転の決意で小選挙区一本でやれば?」と言ったが、甘利さんは比例との並立立候補を選んだ。  結果は、小選挙区で負け、比例で救われた。
 この選挙の時、選挙事務所のメインの場所は何処かの企業グループが仕切るとのことで、我が友人たちの若手グループは奥の二階建てのプレハブのほうに追いやられていた。あの時、突然入ってきて日頃の後援会の人々を排除した企業グループとは????、まさか今回の???。

 厳しい選挙の時には、“なりふり構わず”になる傾向は、古今東西を問わず、ある。
 たしかこの時の自由民主党は、目を覆いたくなるような公明(党)とその支持団体批判のパンフレットを作製した。私の友人はそれを配るのをとても嫌がっていた事を思い出す。(今は自公連立内閣。将に離合集散は世の常、である)。

 この時の選挙だったと思うが、甘利さんの決起大会(大和市内ではなく他の3市のどこかだった)か何かの応援弁士に中曽根康弘さんを頼んだことがあった。
 私に、「出番までの時間調整をしてもらう中曽根さんとの食事(弁当)の相手をしてくれ」と甘利後援会のO氏から頼まれ、中曽根さんと2人っきりで食事をしたことがあった。食事中、「いつまで息子さんを参議院議員で出しておくのか?衆議院議員に転出させないのか?」と私が言ったら、中曽根さんがあせって、刺身をソースにつけてしまった。懐かしい思い出である。

 今回の事件に関して、ほとんどの支持者は甘利さんに対して同情的で、甘い!
 私は、本当の支持者こそ甘利さんを叱責すべきだと思っている。

 「ノブレス オブリージュ」というフランスの言葉がある。
 私も公人である市議や市長の時にはいつもこの言葉の重さを考えていた。
 意味は「富裕の人たち、社会的地位を有する人たち、権力を有する立場の人たちは社会の模範となるように生きるべき義務がある」である。

 先日私ところに来た代議士は、数年前、相模原市での私の来賓挨拶を聴いた後、「お話しの『南洲遺訓』をまた勉強します。」と言っていたが、南洲・西郷隆盛の言葉を甘利さんに紹介します。
 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを盡し、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。」

 多くの人は、「甘利さんは秘書と業者の被害者」と思っているかも知れないが、西郷隆盛のいうように、“人を咎めず、自分の誠の足らざる”結果だと尋ねる(反省)すべきなのである。

 政治家に求められるのは「ノブレス オブリージュ」と共に「出所進退」である。
 直ちに議員を辞して、選挙区(大和・海老名・座間・綾瀬)の、心配をかけ嫌な思いをさせた支持者に対するお詫び行脚をするべきである。
 「身を捨てて 浮かぶ瀬もあれ 人の世は」。

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2016年2月16日(火) 14:02

甘利事件について。その3.

 最近の甘利事件報道には驚くばかりである。
 連日のように、これでもかこれでもかと甘利事務所の“あっせん利得”の実態が衆議院予算委員会やマスコミから(週刊文春以外も)出てくる。
 秘書の信じられないようなURへの働きかけや、業者への見返りの要求内容が明らかにされており、辟易している。
 本来なら「甘利さんが気の毒」とか「本人が第一の被害者」と思いたいのだが、やはり甘利さんが秘書のリードに何の(正悪・正邪・コンプライアンス・更には常識さえも)判断なく「大臣室に私人(それも業者・それもトラブルの調停を依頼してきた業者)を招き入れたこと」と、「更には大臣室で現金を受け取ったこと」の罪は大きい。これは地検特捜部の動きや判断を待たずとも、一般的な常識からも、議員や大臣の行動として許される範囲からも、大きく逸脱している。

 ところで、(平成7年の市長選挙で大変お世話になったのに土屋は・・・)と思いながらこの「ツッチー・レポート」を読んで下さっている方もいらっしゃると思いますが、政治や選挙の世界は、お互い様、相身互(あいみたがい)のところもあるのです。
 もしあの時に市長に私が当選していなかったら、おそらく大和は冨澤代議士・石川市長・安藤県議の図式になっていたと思いま す。
 甘利さんにとって、父祖伝来の地元厚木には亀井善之さんが、自宅(相模原小山)のあった相模原には藤井裕久さんが、藤沢では葉山峻さんがいて、第13選挙区で出る他なかったのでした。私が当選したからこそ、その後の甘利代議士があったともいえるのです。
 私が市長になった翌年のお正月、甘利さんが皇居での新年会(?)の帰りに我が家にお寄りになり、宮内庁のおせち料理をそっくり置いて行かれましたが、そういった意味でのお祝いだったのかもしれません。
 後にも先にも天皇陛下ご下賜のおせち料理を頂いたことはこの時だけで、今でも時々思い出します。

   ただその変わり身の早さが、ひと(他人)の心を考えてねえなあ、と感じることも多々ありました。
 さて、マスコミ報道の出色は現在発売中の「文藝春秋」3月号に掲載されている立花隆さんのコラム「安倍一強時代の陥穽」だと思います。
 文中の一部を引用させていただきます。

 ― あのようなお粗末な話に引っかかったのは、甘利事務所の人々が不用心か頭が悪いかのどちらかだろう。―
 ― 「あっせん利得処罰法」というものができて、ザル法の穴がふさがれた。そしたら内閣の重鎮中の重鎮ともいうべき人が、見事にそれに引っかかった。―
 ― 絵に描いたように、この罪の本質にピッタリ当てはまるケースなのである。―
 ― このケースを罰せなくて、あっせん利得罪で罰せる行為が他にあるかというくらい、 これは単純明快である。―

  このあとでは、トップとしてのレベルに程遠い安倍総理の情の甘さを憂いているが、ぜひ文藝春秋の本文をお読みいただきたい。

   最後に立花さんは、甘利オフィスの法律破りの口利きあっせん行為と本質的に似た行為として、最近の日本の一般道徳水準の弛緩(いわく、教科書検定の買収同然のこと、マンションの基礎杭のこと、大型バスの運転手の技量と経験不足のこと、廃棄処分の食品の販売のこと、)を例示している。

 さらに最後には、安倍さんの施政方針演説も、怪しい運転技能しか持たない運転手が日本国民みんな乗せたツアーバスを猛スピードで運転しているのと等しいものではないかとしている。
 運転手は安倍さんなのか?甘利さんもなのか?

 日頃私は大学で、幕末から明治の志士や政治家が如何に立派で、一人ひとりが思想や哲学、経綸を持った人々だったかを学生に教えているが、今の政治家には一人もいない。

 先日、某週刊誌(週刊文春ではない)の編集長から電話があり、また或る代議士が自宅まで訪ねてきたが、そういった嘆かわしい現在の日本の状況の話しをした。

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2016年2月8日(月) 14:53

甘利事件について。 その2.

 引き続き甘利さんの今回の騒動(マスコミは「違法金銭授受」とか「違法金銭疑惑」と報道)について書きますが、前段で私のことを書かせていただきます。

 私は、自分の人生設計をおおよそ20年で区切って考えておりました。  20歳くらいまでは「親の脛をかじって、バイトもせず勉強だけ(?)に励む(しかし、大学時代の実態はバンド活動中心でギャラがとても良かった)」、20歳くらいから40歳くらいまでは「生活を安定させ、結婚して跡取りを育てる」、40歳くらいから60歳くらいまでは「世の中のために働く」、60歳以降はできるだけ長く「人生を楽しむ」(現在はその真っ最中)、でした。

 25歳頃に会社を設立、結婚。38歳頃に拙著『江戸の奇人 天愚孔平』を脱稿(上梓したのは、その14年後でしたが・・・)してから市会議員に立候補。以後、大和市議を2期務めた後、市長選にチャレンジ。大接戦を経て当選し、3期務めました。
 因みに市議と市長は、自分にとっては人生設計の“世の中のために働く”という崇高な目標達成のための結果でした。

 市議の頃は全ての定例会で一般質問を行い、その内容は一貫して政策提言を心がけました。その結果、「土屋議員は理事者(執行権者・首長)向きだ」といわれるようになっておりましたが、私は(市議会から県議会、そしてあるいは国政にも・・・)と考えておりました。
 そんな頃ちょうど、甘利さんが国会議員で、甘利さんの母親の一族である井上孝俊さんが市長であり、その系列の県会議員がいないから「是非、県会に出てくれ」と、ある人達数人が私のところに頼みに来ました。
 その経過と県議選立候補を井上市長にご報告かたがた御挨拶に行くと、「県議選立候補はチョッと待て」と言われました。
 その頃、井上市長はすでに肺気腫が進み、ご本人と後援会・支持政党(自民党と当時の日本社会党)は3期目出馬の意欲が強くありましたが、ご家族の大反対で断念していたよう でした。
 対立する流れのほうでは、国会に冨澤篤紘さん(前回、「富」の字を使いましたが「冨」でした)、市長に石川公弘さん、県会に安藤博夫さん、で着々と準備が進んでいたようでした。
 私に県議選立候補を勧めてきた人たちは甘利・井上・土屋という系列を考えていたのですが、「井上さんに代わる市長候補」という事で、別の、というか正当な流れ(井上市長本人・後援会・自社両党)から私に“市長選立候補”の白羽の矢が立ったのです。(無鉄砲なあいつならやるだろう、と)。
 当時の新聞記者に、私が「今は石川さんが先行しているが、私は選挙中に追いつき追い越して、必ず勝つ!」と言ったそうです。本人の私は忘れていましたが、それは後で聞きました。


 さて、平成7年の市長選です。
 それはそれは激戦でした。
 同じ市議会会派の清和会同士、相手の石川さんはベテランで議長経験者。私は2期目の若手。
 とりわけ中央文化会館(現在の生涯学習センター)での決起大会は、甘利さんとその支持者の多大な協力による物凄いものでした。
 来賓のメインは当時もっとも輝いていた橋本龍太郎通商産業大臣(後の総理大臣)。定員600人はおろか通路・階段、外にまで1、000人以上の来場者で埋まり大変な熱気でした。
 他にも、後援会報には当時初々しかった田中真紀子科学技術庁長官とのツーショットなどなど、甘利さんには非常にお世話になった結果、土屋市長が誕生したのです。
 その票差、僅か236票差でした。

 ちなみに石川公弘さんについてですが、石川さんが若くして市議に立候補した時、若い事を危惧する地元に対して、私の父が「あれは本物だ」といったことで流れが変わったとか、私の姉の同級生とか、私の兄の湘南高校時代の1学年下とか、いろいろ個人的にも難しい市長選でした。
 ただし市長選の後はお付き合いもあり、昨年も拙宅にお出でになり昔話をさせていただきました。
 一番の思い出は、戦争中高座工廠にいた台湾少年工の皆さんから台湾にお招きを受けた際(もちろん自費で行きました)、石川さんからある方との食事に誘われ、私の投宿しているホテルにわざわざタクシーで迎えに来てくれたことでした。
 そのある方とは、司馬遼太郎の『街道をゆくー台湾紀行』で、司馬遼太郎が“老台北”と呼び、大変お世話になった“蔡焜燦さん”です。
 私にとってはとても貴重で嬉しい体験でした。
 ご興味のある方は、司馬遼太郎の『街道を行くー台湾紀行』と蔡さんの『台湾人と日本精神』を是非お読みください。

 そうそう、甘利さんでしたね?
 安藤博夫さんと甘利さんの関係も、こうした流れの中からも御理解できるのかなと思います。

 私と甘利さんとの交流が少なくなったのは現職の市長でなくなったから当然ですが、時には人に頼まれ紹介せざるを得ない時もありました。
 そういう時、私は東京事務所の河野秘書を経由してお願いしました。
 その理由は、今回の事件の中心人物である清島秘書はなんとなく胡散臭い感じがしたことでした。
 私が人を紹介する時の基準は、お土産は菓子折り程度にすることでした。
 甘利さんご本人は超多忙なので、パーティ等で会った時か電話(内閣府へ)で話すだけにする。
 もちろん、大臣室には公人としての市長現職当時の陳情や表敬訪問ではないので、遠慮する。

 長くなりましたので「その2.」はここまでにしますが、最後に、甘利さんがよく色紙に書いた言葉「得意憺然 失意泰然」について。これは明の朱子学者崔銑の「六然」の一部です。
 まさに甘利さんは経済再生大臣としてTPP交渉に尽力されていた頃には得意であっても“憺然”としていたのでしょうし、失意の現在は“泰然”とされていることと思います。
 自戒の言葉だったんですね?

 最後の最後に、私から甘利さんと清島秘書に「戒石銘」を送ります。
 この言葉は後蜀の名君・孟昶の言葉と言われており、私が市長当時よく職員に「公務員が心がけるべき事」として紹介しました。

 「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 (爾の俸 爾の祿は 民の膏民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し)」
 訳も必要ですか?
 「お前がお上から戴く給料などは、民の汗と脂である。下々の民は虐げ易いけれども、神をあざむくことはできないのだぞ。」

 清島秘書は公設秘書で、我々の税金から年間一千数百万円の給料をもらっていたはず(甘利事務所に上納していないなら・・・)。
 もちろん甘利さんの歳費、調査費、大臣手当、政党助成金、全て民の膏であり民の脂である。
 やっぱり、天は欺けないのですね?

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