土屋きみやす−ツッチーレポート

2018年01月の記事

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2018年1月4日(木) 22:00

こいつあぁ 春から あ、縁起がいいわい

 元旦の新聞にローカルタウン紙の「タウンニュース」が折り込まれており、その記事に載っていた大和の歴史に、“平成十年神奈川ゆめ国体”時の写真が掲載されておりました。
 天皇陛下と皇后陛下が大和スポーツセンターのバトミントン競技にお出で(行幸啓)いただいた時の写真である。



 お出迎えからお見送りまで、ずっと私はご案内などをさせていただき、歓迎する市民(国民)の皆さんの中にちょっとしたアクシデントがあった為に御出発が遅れた時は、約30分お茶を召し上がっていただきながら、お話しのお相手もさせていただいた事を思い出しました。
 まったくもって光栄では晴れがましいその思い出でを、思いがけず元旦にまた見ることが出来ました。
 “こいつあぁ 春から あ、縁起がいいわい”

 箱根駅伝では3日の復路を小田原の国府津で(カレッジソングを唄って)応援しましたが、その7区で私の目の前を走り抜けていった後輩の林奎介さんは区間新記録で金栗杯(MVP)を獲得、もちろん青山学院大学が復路優勝と総合優勝(それも4連覇)を果しました。
 “こいつあぁ 春から あ、縁起がいいわい”


 さて、前回の続き(明治23年の衆議院議員選挙で当選した“綺羅星の如き”立派な政治家の紹介)を書きながら、年末年始に見聞きし、感じたことを書かせていただきます。

 まず第1回衆議院議員選挙で栃木3区から当選した田中正造。
 足尾鉱毒事件の田中正造という人物の事は略歴をご覧いただきたいのですが、6回当選の間、約10年間、というよりむしろ生涯を懸けて、日本初の公害事件といわれる足尾銅山の鉱毒の恐ろしさを訴え続け、最後は衆議院議員を辞して、死を覚悟(その方がインパクトがあるという意味で)して、天皇陛下に直奏(直接訴える直訴ではなく、直接奏上する直奏)した人物であり、私にとっては最も尊敬する、偉大な政治家である。
 今の天皇陛下と皇后陛下なら、必ずや現地に行幸啓され、その鉱毒の恐ろしさをご視察されたであろう。
 そこで提案である。
 私にとって、平成十年の神奈川ゆめ国体、平成28年の叙勲の際の受賞者代表挨拶など、私が特別の思いと尊敬を抱く両陛下には、是非とも退位して上皇になられた後は京都にお住まい頂きたい。
 150年前の維新の際に正式に“遷都”していないのだが、今さら遷都もないだろうから、むしろ上皇が京都にお住まいになるのが良い。文化庁も京都に移り、外国からの賓客も東京で新しい天皇・皇后両陛下に拝謁し、京都で上皇と皇太后に拝謁するのはいかがであろう?首都機能の分散にもなるし、京都がさらに重みのある都市となる。
 どなたか、是非御進言していただきたい。

 天皇制といえば、昨年末から今年にかけて続く見苦しい大相撲の争い。どうやら根は深いらしい。
 そこで提案である。
 いっそのこと、モンゴル暴力相撲と化した相撲を“国技”などとんでもない!今すぐ「国技」を止めて、天皇賜杯も止めるべきであろう。総理大臣賞程度で充分である。
 どなたか、是非提案していただきたい。

 最後に“見苦しい殺人事件が起きた冨岡八幡”について。
 神社だから、去年のうちに既に“お祓い”は済ませたであろうが、私にとっては出雲松江藩のお抱え力士“釈迦ヶ岳雲衛門の碑”を始め、横綱の碑がある歴史的に重要な場所であり、また佐川急便が寄進したダイヤモンドの目が入った鳳凰の大神輿もある、いろいろな意味で関心の深い神社である。
 そこで大提案である。
 本当の意味でのお祓いを、あの大晦日の紅白歌合戦で安室奈美恵や桑田佳祐ほかオオトリの歌手(誰だっけ?)を完全にくった素敵な高校生たち“大阪府立登美丘高校ダンス部”を招いて、彼女たちのあのバブリ―ダンスでもって“お祓い”とすることである。
 ついでに神社名を「冨岡八幡」から「登美丘八幡」に改名し、改めて神社本庁に登録をするのである。

 今年の年末からお正月にかけて、大阪府立富美丘高校ダンス部と青山学院大学陸上部の素晴らしい姿に感動した。
 “こいつあぁ 春から あ、縁起がいいわい”

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2018年1月1日(月) 00:00

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 新年明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。
 そして是非、この「ツッチーレポート」をお読みください。

 さて昨年私は、このブログで明治二十三年に実施された総選挙で当選した人達を“綺羅星の如き人々”と表現し、その主な名前だけを紹介し、その後詳しく紹介しないまま年を越してしまった。
 その時に紹介した人物のすべてをここに紹介できないかもしれませんが、もう一度、当選人名簿を見ながら書き出してみます。

 北から。
 岩手県1区の大江卓。
 土佐の出身で奥さんは後藤象二郎の次女。幕末には中岡慎太郎が隊長を務めていた土佐陸援隊に所属。
 当然、土佐海援隊長の坂本龍馬や陸奥宗光とも倒幕運動の同志であった。
 立憲自由党所属、土佐の挙兵「立志社の獄」で岩手監獄に収監された故に岩手から出馬。明治五年、陸奥宗光の推挙により神奈川県令(知事)に就任。神奈川や横浜の街づくりに奔走し、警察制度を作り上げた。またその間、清国人奴隷の解放に尽力、在日華僑に感謝される。また、フェリス和英女学校(現在のフェリス女学院)を援助したり、部落解放運動の水平社運動にも深く関わった。

 福島3区の河野広中。
 陸奥国三春藩郷士の家に生まれる。幕末には尊皇倒幕論を唱える。三春藩は奥羽列藩同盟ではあったが、板垣退助(東山道先鋒総督府参謀)と会見し、土佐藩兵に合流。
 明治以後、ジョン・スチュアート・ミルの『自由の理』を読み自由民権運動に開眼、東北地方の自由民権運動の先駆けになる。
 明治初めは民権運動で活躍するがここでは略す。
 第一回以降、大正十六年の第十四総選挙まで連続当選。
 自由党から自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力。憲政党の結成、その後、大隈重信らと憲政本党結成に参加。
 明治三十六年第十一代衆議院議長に就任。
 明治三十八年にはポーツマス条約に反対し、国民大会の議長として日比谷焼打ち事件を扇動。
 その他、アジア主義団体の「亜細亜義会」に犬養毅や頭山満らと設立発起人として参加。 
 立憲国民党→立憲同志会→憲政会に所属。大正四年、大隈内閣の農商務大臣に就任。

 栃木3区の田中正造。
 足尾鉱毒事件に政治生命をかけた尊敬すべき政治家。
 名主の家に生まれ、江刺県花輪支庁の官吏、区会議員、栃木県県会議員など(後に立憲改進党結成に入党)で政治活動を行う。
 第一回衆議院議員選挙で当選。
 足尾鉱毒事件に関しては長くなるので、次回はこの田中正造と足尾鉱毒事件について書き、今回はここまで。

 難い話と思わないで是非、こういった明治の政治家の事をお読みいただきたい。

 最後にまた新聞記事。昨年11月28日の読売新聞夕刊「よみうり寸評」である。
 ここでは明治の政治家を一緒くたにした書き方をしているが、このコラムを書いた人にも私のブログを読ませたいものである。
 そして今の政治家には“明治時代の政治家の爪を煎じて飲んでもらいたい”!


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