土屋きみやす−ツッチーレポート

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2018年3月5日(月) 09:22

第一回総選挙当選者の続き。このところ思った事(朝鮮半島問題、佐川国税庁長官問題)や、最近読んだ本について。

 第一回総選挙で当選した人物で、今までに紹介した他の偉大な政治家を、ここに一挙に列挙してみる。
 まず、
 島田三郎。
 当初、私が紹介しようとしていた当選者には入れていなかったが、先日、古い書類の類を燃やしていたら、添付のような新聞記事の切り抜きが出てきた。不思議な事だが、本人から(私も紹介して)、という天啓のようだったのでここに紹介する。



 嚶鳴社幹部として立憲改進党創立に参加、神奈川第一区から出馬、当選。以来連続亡くなるまで14回当選。業績としては、この新聞記事のように、キリスト教の諸活動、廃娼運動、足尾鉱毒被害者救済、矯風事業、普通選挙の拡張運動などに尽力した。

 次に、中島信行。
 土佐の出身。幕末には武市半平太の土佐勤王党、坂本龍馬の海援隊、龍馬の死後は陸援隊に参加。
 維新後、新島襄に出会い、キリスト教に入信。
 外国官権判事、兵庫県判事、ヨーロッパ留学、神奈川県令、元老院議員、自由民権運動に参加、板垣退助らと自由党結成に参加、副総理となる。自由民権運動への取り締まりの一つである保安条例で横浜に追放される。
 その後の第一回総選挙で神奈川から出馬して当選。初代衆議院議長。後にイタリア特命全権公使、貴族院議員に勅選。維新の功績により男爵に。
 最初の奥さんは陸奥宗光の妹だったが死別、後妻が有名な女性解放運動家の岸田俊子で紹介をしたいが、話が横道にそれるのでここでは省略。
 とにかく、坂本龍馬の薫陶を受けた土佐の志士であった。

 その次に尾崎行雄。
 三重が選挙区だが生まれは神奈川の津久井。
 第一回総選挙以来、連続25回当選。これは今後も破られないであろうし、世界記録でもある。更に議員連続年数も最高齢議員も記録保持者であり、“憲政の神様”と称される最も偉大な政治家であるが、其の当選回数や年数のみならず、数々の業績がある。
 あまりにも有名な憲政の神様であるので、この人物については改めて別に紹介する。

 土佐の出身だが大阪から出た中江篤介。
 有名な中江兆民である。若い頃、土佐海援隊に出入りし、坂本龍馬から「煙草を買って来てくれ」と声を掛けられたのを生涯誇りにしていたという逸話がある。
 明治維新後フランスに學び、ジャン=ジャック・ルソーを日本に紹介、自由民権運動の理論的指導者となる。
 「東洋のルソー」と呼ばれた。
 この人物ももっと評価されるべきであり、機会があったら更に紹介したいと思う。

 陸奥宗光。
 和歌山から出たが出身はこの人物も土佐。
 亀山社中から土佐海援隊において坂本龍馬と行動を共にしており、龍馬をして「二本差さないても食っていけるのは俺と陽之助(宗光の明治以前の名)だけだ」と言わしめた。
 明治維新後は、政治、外交に手腕を発揮、版籍奉還・廃藩置県・徴兵令・地租改正などに辣腕をふるったが、その思想の根幹には大きく龍馬が影響を与えている。
 徳川幕府時代の不平等条約である修好通商条約の改正を実現した外務大臣(カミソリ大臣と呼ばれた)として実現させたのも彼である。
 龍馬の思想の体現者と言っても良い。

 犬養毅。
 尾崎行雄に続く当選回数と期間(18回連続当選42年間)保持者であるが、むしろ総理大臣として有名。
 明治期の政治家や頭山満、ガンジー、ネル―、タゴール、孫文、蒋介石らと交流があったが5・15事件で暗殺された(「話せばわかる」、「問答無用」のやり取りが有名)。
 この人物については、皆さんの方が詳しいかもしれないので、この程度で終える。

 土佐(高知県)選出の竹内綱、林有造、片岡健吉、植木枝盛もそれぞれ魅力ある人物であった。

 まず竹内綱。
 吉田家に息子を養子に出したが、この息子が後の吉田茂である。
 経歴は省略する。

 林有造。
 自由民権運動家、逓信大臣、農商務大臣などを歴任。やはり土佐の出身であるから板垣退助らとの政治歴が強い。

 片岡健吉。
 自由民権家、衆議院議長などを務めた。
 この人物も板垣退助ら行動を共にしていた土佐の政治家である。

 植木枝盛。
 やはり土佐の出身であるから、自由民権運動の理論的指導者の思想家であり、政治家であった。
 土佐の立志社についてなど、ここに書きたいことはたくさんあるが省略する。
 明治14年、100近くあったといわれる私擬憲法の中で、最も民主的で急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』の起草者であり、これは、私が大学で憲法問題(現行憲法の成立や、最近話題の憲法改正など)の講義をした時に、必ず『五日市憲法』と共に紹介した名憲法草案である。

 さて、尾崎行雄(咢堂)、自由民権運動、坂本龍馬と明治時代の政治思想との関りは改めて書くが、今回はここまで。

 朝鮮半島問題(冬季オリンピックでの北の政治利用の上手さと韓国のおめでたさ)、佐川国税庁長官と森友疑惑、最近読んだ本、についても、長くなるのでこれらは次回。

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2018年2月17日(土) 16:49

第一回衆議院議員選挙で当選した人々(続き)と、近未来の本当に怖い予測。

 まず明治23(1890)年に実施された衆議院議員選挙の“綺羅星の如き”当選者の続き。

 まず高田早苗。
 最初の衆議院議員選挙において全国最年少で埼玉2区から当選した政治家でもあり、教育者でもあった。
 早稲田大学というと我々は、大隈重信を思い浮かべるが、その大隈と共に早稲田大学の前身である東京専門学校の設立に尽力し、早稲田大学が総長・学長制を敷くと初代学長に就任(初代総長は大隈)、後に総長にも就任している。  早稲田の式服、式帽、校旗、職制などを定め、教旨の制定など発議した。  早稲田大学に学んだ人々は、必ずや「高田早苗記念研究図書館」で多くの時間を割いて勉学に励んだ事であろう(私が青山学院大学の間島記念図書館でいつも勉学に励んでいたように・・・笑)。
 その以前に高田早苗は政治家であり、また言論人でもあった。東大文学部を卒業後、大隈の立憲改進党に加わり、読売新聞主筆であったが第一回議会招集の時に読売新聞の主筆を退任している。
 政治家としては衆議院議員を通算6期務め、第2次松方内閣(大隈と連立した松隈内閣)の外務省通商局長。この時に株主として参画していた読売新聞からの退社を広告した。第1次大隈内閣(板垣退助との連立だったので隈板内閣ともいう)で文部省参事官、高等学務局長、参与官兼専門学務局長となる。一度政界から離れた後、貴族院議員に勅撰されたが、第2次大隈重信内閣で文部大臣を務めた。

 次に津田真道。
 先に第一回総選挙において東京8区で当選する以前の略歴を書き出してみる。
 美作(岡山)津山藩の生まれで江戸に出て、蘭学を箕作阮甫と伊東玄朴に、兵学を佐久間象山に学んだ。藩籍を脱しての苦学であったが、蕃書調所(徳川幕府の洋学研究教育機関で、東京大学の前身の一つ)に雇用され(幕臣となった)、文久2(1862)年には西周と共にオランダに留学。帰国後、講義録をまとめた『泰西国法論』というヨーロッパの法制に関する翻訳本を出した。これは日本で最初の西洋法学の紹介であった。目付に就任し、大政奉還の頃には徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』)。
 明治維新後は司法省に出仕して『新律綱領』の編纂に参画、その後、外務権太丞として全権伊達宗城の副使となり日清修好条規提携に関わり、陸軍省では陸軍刑法を作成した。他にも裁判官や元老院議官を務めた。
 明治六年には福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之、西村茂樹らと「明六社」を結成。
 明治二十三年の衆議院議員当選後、初代衆議院副議長に就任。
 明治二十九年には貴族院議員となる。

 さて、前半は難い内容の第一回総選挙当選者の紹介でしたので、今回は2人に止めて、次に近未来の怖い話。

 北朝鮮が核兵器保有国になったと思われた頃から、私は「韓国の経済力と、北朝鮮の核保有軍事力が、“南北統一”という名の元に1つの国家になる」という近未来予測を想定した。これは日本にとって、経済的にも、軍事的にも、脅威である。
 その予兆は昨年の9月25日付けのこのツッチーレポートに書いた(韓国大統領の北朝鮮に対する8億円と言われる人道支援案という)すり寄りである。もともと親北的な立場の現在の文在寅大統領のこういったスタンスを北朝鮮は決して見逃さないことは、今回の冬季平昌オリンピックでの北の動きが良い例である。北朝鮮を侮ってはいけない。あの軍事力は(使うか使わないかは兎も角)決して張り子の虎ではない。どの核保有国は核兵器を使ってはいないが強力なカードになっている。

 日本との大きな外交問題は、韓国が主張する領土問題(我が国固有の領土“竹島”に関する強硬なスタンス)と、慰安婦や少女像の2つの問題である。

 領土問題はロシア(残念だが敗戦による結果である北方4島)と中国(これは断固として対応するべき我が国固有の尖閣諸島)と共にしっかり主張し、時と場合によっては実行動も辞さないという覚悟が今の政治家には必要である。

 慰安婦問題のお金の事だが、
 @ 韓国が慰安婦支援の財団を設け、そこに日本が10億円拠出。
 A 日韓合意当時生存していた元慰安婦47人のうち34人にそれぞれ約1億ウオン(約1000万円)を支給、合意前に死亡した199人については、親族ら68人に約2000万ウオン(約200万円)払った。
 と言った合意が実行されたのである。にもかかわらず、現政権はガタガタ言って混乱させている。
 これって、国家そのものが“あれ”をしているか、“あれ”になったようで、至極不愉快である。

 最後に動画をご覧ください。


 前回2月2日のツッチーレポートで甘利さんの事を書いたら、翌日の節分で甘利さんと一緒に豆を撒くことになってしまった。
 甘利さんは第1回目に撒き、私は第2回目に撒く予定だったが、甘利さんが遅れてきて私の隣に来てしまった。
 私が紹介された時、「あっ、市長歳男なの?(私の事を今でも市長と呼んでいる)」と、話しかけているところがこの動画である。
 どうでもいいけど・・・・・。

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2018年2月2日(金) 17:14

もう2月!ちょっと恥ずかしい写真を2枚ご覧ください。

 前回までに、第一回の総選挙(衆議院議員選挙)の当選者のうち、まず大江卓、河野広中、田中正造の3名を紹介した。
 次回から出来るだけ多くの衆議院議員の当選者を紹介するが、ここでとりあえず名前のみを先に紹介しておく。
 高田早苗、津田 真道、中島信行、尾崎行雄、中江篤介、陸奥宗光、犬養毅、竹内綱、林有造、片岡健吉、植木枝盛などなどであり、とりわけそのうち、坂本龍馬の影響下(というより亀山社中や土佐海援隊時代からの同志)の中島信行、中江篤介、陸奥宗光、高知県選出では竹内綱、林有造、片岡健吉、植木枝盛などの人物が見え、将に”綺羅星の如き”政治家たちである。

 またまた、それに引き換え今の政治家は・・・、である。
 ここに、今となってはチョッと恥ずかしい写真をご覧いただきます。



 これは安倍さんが第一回目の内閣を組閣した頃の写真だったと記憶しているが、私にとって、今となってはあまり有り難くもないツーショット であり、むしろチョッと恥ずかしい写真である。

 先日ちょうどテレビをつけたら、衆議院予算委員会か何かでの答弁の場面だった。安倍総理が森友学園や加計問題の答弁をしていたのだが、質問者の顔を見ないで机の上の答弁書原稿を読んでいた。
 名誉校長の昭恵夫人が、森友学園の一件で、「何も関与していない」とか答弁していたが、その顔にはまざまざと”嘘をついている答弁を読んでいる”、と書いてあった。恥ずかしい!
 品川のホテルで週何回も逢っているのに”男女の関係はなかった”と強弁していた人を思い出した。

 この所の寒さで、薪ストーブを使う事が多いが、点火の際に古紙を使う。  こんな新聞まで出てきた。



 誤解の無いように、甘利明さんと私とは同志である(あった、かな?)。
 私が平成七年の市長選挙に当選できたのは甘利さんのお陰が大である。
 でも、あの時に私でなく、もし石川公弘さんが市長に当選していれば、この選挙区の長い歴史の勢力図からすると、衆議院議員は甘利さんでなく、冨澤篤紘さんがずっと当選し続けていたであろう事を考えると、あの時の市長選挙で私が勝利したのは、同時に甘利さんにとっても大きな意味があったのである。
 選挙の勝敗とその後の政治生命を艦が見(かんがみ)た時、同志だったからこそ、同志だからこそ、私は厳しくその政治姿勢を見つめ続けている。甘利さんは県立厚木高校の後輩でもある。
 もう直ぐこの 新聞は燃やしてしまうが、事実は消し去ることはできない!人の記憶も・・・・・。
 
 「政治は最高の道徳である!(べきである!)。」

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2018年1月4日(木) 22:00

こいつあぁ 春から あ、縁起がいいわい

 元旦の新聞にローカルタウン紙の「タウンニュース」が折り込まれており、その記事に載っていた大和の歴史に、“平成十年神奈川ゆめ国体”時の写真が掲載されておりました。
 天皇陛下と皇后陛下が大和スポーツセンターのバトミントン競技にお出で(行幸啓)いただいた時の写真である。



 お出迎えからお見送りまで、ずっと私はご案内などをさせていただき、歓迎する市民(国民)の皆さんの中にちょっとしたアクシデントがあった為に御出発が遅れた時は、約30分お茶を召し上がっていただきながら、お話しのお相手もさせていただいた事を思い出しました。
 まったくもって光栄では晴れがましいその思い出でを、思いがけず元旦にまた見ることが出来ました。
 “こいつあぁ 春から あ、縁起がいいわい”

 箱根駅伝では3日の復路を小田原の国府津で(カレッジソングを唄って)応援しましたが、その7区で私の目の前を走り抜けていった後輩の林奎介さんは区間新記録で金栗杯(MVP)を獲得、もちろん青山学院大学が復路優勝と総合優勝(それも4連覇)を果しました。
 “こいつあぁ 春から あ、縁起がいいわい”


 さて、前回の続き(明治23年の衆議院議員選挙で当選した“綺羅星の如き”立派な政治家の紹介)を書きながら、年末年始に見聞きし、感じたことを書かせていただきます。

 まず第1回衆議院議員選挙で栃木3区から当選した田中正造。
 足尾鉱毒事件の田中正造という人物の事は略歴をご覧いただきたいのですが、6回当選の間、約10年間、というよりむしろ生涯を懸けて、日本初の公害事件といわれる足尾銅山の鉱毒の恐ろしさを訴え続け、最後は衆議院議員を辞して、死を覚悟(その方がインパクトがあるという意味で)して、天皇陛下に直奏(直接訴える直訴ではなく、直接奏上する直奏)した人物であり、私にとっては最も尊敬する、偉大な政治家である。
 今の天皇陛下と皇后陛下なら、必ずや現地に行幸啓され、その鉱毒の恐ろしさをご視察されたであろう。
 そこで提案である。
 私にとって、平成十年の神奈川ゆめ国体、平成28年の叙勲の際の受賞者代表挨拶など、私が特別の思いと尊敬を抱く両陛下には、是非とも退位して上皇になられた後は京都にお住まい頂きたい。
 150年前の維新の際に正式に“遷都”していないのだが、今さら遷都もないだろうから、むしろ上皇が京都にお住まいになるのが良い。文化庁も京都に移り、外国からの賓客も東京で新しい天皇・皇后両陛下に拝謁し、京都で上皇と皇太后に拝謁するのはいかがであろう?首都機能の分散にもなるし、京都がさらに重みのある都市となる。
 どなたか、是非御進言していただきたい。

 天皇制といえば、昨年末から今年にかけて続く見苦しい大相撲の争い。どうやら根は深いらしい。
 そこで提案である。
 いっそのこと、モンゴル暴力相撲と化した相撲を“国技”などとんでもない!今すぐ「国技」を止めて、天皇賜杯も止めるべきであろう。総理大臣賞程度で充分である。
 どなたか、是非提案していただきたい。

 最後に“見苦しい殺人事件が起きた冨岡八幡”について。
 神社だから、去年のうちに既に“お祓い”は済ませたであろうが、私にとっては出雲松江藩のお抱え力士“釈迦ヶ岳雲衛門の碑”を始め、横綱の碑がある歴史的に重要な場所であり、また佐川急便が寄進したダイヤモンドの目が入った鳳凰の大神輿もある、いろいろな意味で関心の深い神社である。
 そこで大提案である。
 本当の意味でのお祓いを、あの大晦日の紅白歌合戦で安室奈美恵や桑田佳祐ほかオオトリの歌手(誰だっけ?)を完全にくった素敵な高校生たち“大阪府立登美丘高校ダンス部”を招いて、彼女たちのあのバブリ―ダンスでもって“お祓い”とすることである。
 ついでに神社名を「冨岡八幡」から「登美丘八幡」に改名し、改めて神社本庁に登録をするのである。

 今年の年末からお正月にかけて、大阪府立富美丘高校ダンス部と青山学院大学陸上部の素晴らしい姿に感動した。
 “こいつあぁ 春から あ、縁起がいいわい”

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2018年1月1日(月) 00:00

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 新年明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。
 そして是非、この「ツッチーレポート」をお読みください。

 さて昨年私は、このブログで明治二十三年に実施された総選挙で当選した人達を“綺羅星の如き人々”と表現し、その主な名前だけを紹介し、その後詳しく紹介しないまま年を越してしまった。
 その時に紹介した人物のすべてをここに紹介できないかもしれませんが、もう一度、当選人名簿を見ながら書き出してみます。

 北から。
 岩手県1区の大江卓。
 土佐の出身で奥さんは後藤象二郎の次女。幕末には中岡慎太郎が隊長を務めていた土佐陸援隊に所属。
 当然、土佐海援隊長の坂本龍馬や陸奥宗光とも倒幕運動の同志であった。
 立憲自由党所属、土佐の挙兵「立志社の獄」で岩手監獄に収監された故に岩手から出馬。明治五年、陸奥宗光の推挙により神奈川県令(知事)に就任。神奈川や横浜の街づくりに奔走し、警察制度を作り上げた。またその間、清国人奴隷の解放に尽力、在日華僑に感謝される。また、フェリス和英女学校(現在のフェリス女学院)を援助したり、部落解放運動の水平社運動にも深く関わった。

 福島3区の河野広中。
 陸奥国三春藩郷士の家に生まれる。幕末には尊皇倒幕論を唱える。三春藩は奥羽列藩同盟ではあったが、板垣退助(東山道先鋒総督府参謀)と会見し、土佐藩兵に合流。
 明治以後、ジョン・スチュアート・ミルの『自由の理』を読み自由民権運動に開眼、東北地方の自由民権運動の先駆けになる。
 明治初めは民権運動で活躍するがここでは略す。
 第一回以降、大正十六年の第十四総選挙まで連続当選。
 自由党から自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力。憲政党の結成、その後、大隈重信らと憲政本党結成に参加。
 明治三十六年第十一代衆議院議長に就任。
 明治三十八年にはポーツマス条約に反対し、国民大会の議長として日比谷焼打ち事件を扇動。
 その他、アジア主義団体の「亜細亜義会」に犬養毅や頭山満らと設立発起人として参加。 
 立憲国民党→立憲同志会→憲政会に所属。大正四年、大隈内閣の農商務大臣に就任。

 栃木3区の田中正造。
 足尾鉱毒事件に政治生命をかけた尊敬すべき政治家。
 名主の家に生まれ、江刺県花輪支庁の官吏、区会議員、栃木県県会議員など(後に立憲改進党結成に入党)で政治活動を行う。
 第一回衆議院議員選挙で当選。
 足尾鉱毒事件に関しては長くなるので、次回はこの田中正造と足尾鉱毒事件について書き、今回はここまで。

 難い話と思わないで是非、こういった明治の政治家の事をお読みいただきたい。

 最後にまた新聞記事。昨年11月28日の読売新聞夕刊「よみうり寸評」である。
 ここでは明治の政治家を一緒くたにした書き方をしているが、このコラムを書いた人にも私のブログを読ませたいものである。
 そして今の政治家には“明治時代の政治家の爪を煎じて飲んでもらいたい”!


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