土屋きみやす−ツッチーレポート

2011年4月10日(日) 00:00

天保の飢饉から今の日本を考える。

 4月9日、「NPO法人新現役ネット(岡本行夫理事長)」の皆さんが私の話を聴きに来訪されました。

 コーディネートをした町田市観光コンペンション協会の方々からの依頼で、南町田〜下鶴間のウォーキングの一環でした。事前のお話では25〜30人と聞いていたのですが、50人以上の大集団で、我が家の2つの座敷が万杯になる状況でした。

 私が頼まれたテーマは江戸時代の渡辺崋山が紀行文『游相日記』に書いている下鶴間の事でしたので、崋山が投宿しようとした長谷川彦八家の現当主である長谷川賢太郎氏と、崋山が投宿した“まんじゅう屋”の現当主土屋猛徳氏にも同席してもらいました。

 私の講演内容は近々、準備でき次第、もう一つのブログである「土屋研究所」に掲載を予定しておりますので、しばらくしたら是非ご覧ください。

 ここではその準備の為に読み直した本の中から、3.11東日本大震災後の現代日本に大いに参考となる“天保の飢饉”についてご紹介いたします。

 天保の大飢饉について。
 天保4年、春より天候不順、冷夏、秋には大雨・風に洪水、冬寒く、大不作。
 天保6年、蝗(いなご)の大群、特に津軽地方大被害。
 天保7年、災害の類がさらに酷く、苛烈を極めた。
 この前より東北諸国の惨状とくに痛ましく、4年から10年の7年間に津軽だけで3万5千余人以上の死者、他に流離する人4万7千余人。

 その被害は東北のみならず、全国に及び、江戸でも筋違橋外や和泉橋外に救済小屋を設け、粥を施し、5千余人を収容。
 天保7年の飢饉には、御救米、御救小屋を持ってしてもなお多くの死者が江戸の町に累々と横たわり、幕府は足元に火が付いてからやっと対策を考えたが、後手後手の実態。(今の管内閣を彷彿とさせる)
 結局、民間団体「尚歯会(崋山や高野長英のグループ)」などが大いに活動した
 (現代のNPOなどのボランティアか?)

 ちなみに、二宮尊徳が春に茄子(なす)を食べ、それが秋の味であることから直ちに異変を未然に察し、農民にあらかじめ稗(ひえ)を備蓄させた有名な話は天保4年。

 また、大阪奉行所の与力で陽明学者の大塩平八郎が、蔵書を売って疲弊極まった窮民を救済し、ついに幕府を批判して乱(大塩平八郎の乱)を起こしたのが天保8年。

 天保6年、田原藩の家老だった崋山は藩に「報民蔵」を作らせ食糧を備蓄。
 天保7年、病だった崋山は『凶荒心得書』などで藩主や他の家老に心得を示す。
 その恐慌対策とは、備蓄、節約、その他、葛、ワラビ、カラスウリの根、あらめやひじき等の海藻(田原藩は渥美半島の海沿い)等を食に変えることなど。
 それらの倹約と、凶作や大災害を予測した経済対策等による効果により、田原藩からは1人の餓死者も出なかったと言われている。
 また天保8年には、京都の三条大橋のほとりに救い小屋を設け、施米を行った。

 余談だが、我が国にサツマイモを広めた青木昆陽は有名だが、馬鈴薯(ジャガイモ)と早蕎麦の栽培を奨励したのは崋山の尚歯会仲間の高野長英である(『ニ物考』)。

 9日の私の講演は、床の間にかけた後藤新平の書から、関東大震災後の東京復興などの話に始まり、「蛮社の獄」に至るのだが、本題は『游相日記』だったので、綾瀬のお銀様に再会する感動の場面をクライマックスにした。

 それにしても、歴史は繰り返す。
 天保の飢饉と今の日本がオーバーラップした昨今である。

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