土屋きみやす−ツッチーレポート

2015年7月11日(土) 16:24

春季大学講義もいよいよ大詰め。

 大学の春季講義もいよいよ最終段階を迎えました。
 来週の第15回目はまず30分講義をして残りの1時間でペーパーテストを行いますので、昨日の10日(第十四回目)が実質的な最終講義となりました。
 昨日、教務課に試験問題を届けて、印刷を依頼してきました。

 さてそれでは、13回目と14回目の授業内容をここにアップいたします。
 第13回目は「明治新政府でも登用された榎本武揚への再評価」というタイトルで、五稜郭だけが有名な榎本武揚の、実態に迫った講義(のつもり)でした。



 幕臣(旗本)→オランダへの5年間留学→帰国後の徳川幕府の海軍での働き→蝦夷共和国建国・選挙で総裁に→五稜郭での戦い→切腹させてもらえず降伏→投獄→明治新政府に登用→大臣等で活躍。
 長崎海軍伝習所でカッテンディ―ケに高く評価され、帰国後に徹底抗戦を主張し、共和国を建設し、(その才能を死なすのは忍びないと考えた)官軍の黒田才介(清隆)に説得され降伏し、後に明治新政府で活躍した彼を、私は決して裏切り者とは思わないし、むしろ立派な人生を全うしたと考えている。

 最後に福澤諭吉の「瘦せ我慢の説」に反論して、少しく私の見解を述べました。
 要するに福澤諭吉は、幕臣ならば、幕府崩壊以降は、「遁世出家するか、社会の暗処に隠して、生活を質素にし、一切万事控え目にして 云々」と言い、明治新政府で特派公使や大臣に任ぜられた榎本を批判しているのである。
 この「瘦せ我慢の説」は、勝海舟に向けられたもので、後半で「勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまた序(ついで)ながら一言せざるを得ず」と言いながら結構強く批判しているのである。更に文中で幕府の軍艦「咸臨丸」が清水港で官軍に攻撃された時の戦没者の慰霊碑に榎本が「食人之食者 死人之事(ひとのしょくをはむものは ひとのことにしす)」と記毫していることに言及しているのである。
 これに対して、榎本は言い訳も反論もしなかったと思うので、私が敢て榎本の心を忖度して見た。
 この『史記』の言葉の「食」を考えてみる。
 福澤諭吉は単純に「食を食む=徳川から俸禄を貰っていた」という視点であるが、榎本は徳川幕府崩壊後に共和国建設、その後の日本は明治新政府、という歴史的事実と、彼のその時その時の存在と活躍から、この場合の「食」の提供者とは、大きな視点での“国家”だったと考えているのである。
 どうであろうか?お読み下さった皆様はどうお考えでしょうか?

 私は、福澤諭吉より榎本武揚のほうがはるかに大人物だったと考える。(慶応義塾関係者の皆様ご免なさいね?)

 私にとって、勝海舟と福澤諭吉の事はどうでも良い。
 彼らの咸臨丸での太平洋横断時の確執を読むと、どっちもどっちの人物だからである。

 閑話休題。

 さて、第十四回目であるが、ここでは「政治は最高の道徳であるという観点から“田中正造”を考える」というテーマで、その全人生を、自由民権運動と、足尾鉱毒事件の解決にささげた田中正造として採り上げた。



 講義の中心は田中正造の天皇直訴のその文章(謹奏・直奏)を皆と共に読み込んだ。(資料)
 資料は読みにくいと思いますが、幸徳秋水が筆を起こした(原案)この文章を是非お読みいただきたい。



 現代に榎本武揚や田中正造のような政治家は、存在しない。
 更に今の総理大臣は長州の安倍さん。それも、吉田松陰先生や久坂玄随、高杉晋作の足元にも及ばないどころか、爪の垢を煎じて飲んでもらいたい長州人である。

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