土屋きみやす−ツッチーレポート

2016年2月8日(月) 14:53

甘利事件について。 その2.

 引き続き甘利さんの今回の騒動(マスコミは「違法金銭授受」とか「違法金銭疑惑」と報道)について書きますが、前段で私のことを書かせていただきます。

 私は、自分の人生設計をおおよそ20年で区切って考えておりました。  20歳くらいまでは「親の脛をかじって、バイトもせず勉強だけ(?)に励む(しかし、大学時代の実態はバンド活動中心でギャラがとても良かった)」、20歳くらいから40歳くらいまでは「生活を安定させ、結婚して跡取りを育てる」、40歳くらいから60歳くらいまでは「世の中のために働く」、60歳以降はできるだけ長く「人生を楽しむ」(現在はその真っ最中)、でした。

 25歳頃に会社を設立、結婚。38歳頃に拙著『江戸の奇人 天愚孔平』を脱稿(上梓したのは、その14年後でしたが・・・)してから市会議員に立候補。以後、大和市議を2期務めた後、市長選にチャレンジ。大接戦を経て当選し、3期務めました。
 因みに市議と市長は、自分にとっては人生設計の“世の中のために働く”という崇高な目標達成のための結果でした。

 市議の頃は全ての定例会で一般質問を行い、その内容は一貫して政策提言を心がけました。その結果、「土屋議員は理事者(執行権者・首長)向きだ」といわれるようになっておりましたが、私は(市議会から県議会、そしてあるいは国政にも・・・)と考えておりました。
 そんな頃ちょうど、甘利さんが国会議員で、甘利さんの母親の一族である井上孝俊さんが市長であり、その系列の県会議員がいないから「是非、県会に出てくれ」と、ある人達数人が私のところに頼みに来ました。
 その経過と県議選立候補を井上市長にご報告かたがた御挨拶に行くと、「県議選立候補はチョッと待て」と言われました。
 その頃、井上市長はすでに肺気腫が進み、ご本人と後援会・支持政党(自民党と当時の日本社会党)は3期目出馬の意欲が強くありましたが、ご家族の大反対で断念していたよう でした。
 対立する流れのほうでは、国会に冨澤篤紘さん(前回、「富」の字を使いましたが「冨」でした)、市長に石川公弘さん、県会に安藤博夫さん、で着々と準備が進んでいたようでした。
 私に県議選立候補を勧めてきた人たちは甘利・井上・土屋という系列を考えていたのですが、「井上さんに代わる市長候補」という事で、別の、というか正当な流れ(井上市長本人・後援会・自社両党)から私に“市長選立候補”の白羽の矢が立ったのです。(無鉄砲なあいつならやるだろう、と)。
 当時の新聞記者に、私が「今は石川さんが先行しているが、私は選挙中に追いつき追い越して、必ず勝つ!」と言ったそうです。本人の私は忘れていましたが、それは後で聞きました。


 さて、平成7年の市長選です。
 それはそれは激戦でした。
 同じ市議会会派の清和会同士、相手の石川さんはベテランで議長経験者。私は2期目の若手。
 とりわけ中央文化会館(現在の生涯学習センター)での決起大会は、甘利さんとその支持者の多大な協力による物凄いものでした。
 来賓のメインは当時もっとも輝いていた橋本龍太郎通商産業大臣(後の総理大臣)。定員600人はおろか通路・階段、外にまで1、000人以上の来場者で埋まり大変な熱気でした。
 他にも、後援会報には当時初々しかった田中真紀子科学技術庁長官とのツーショットなどなど、甘利さんには非常にお世話になった結果、土屋市長が誕生したのです。
 その票差、僅か236票差でした。

 ちなみに石川公弘さんについてですが、石川さんが若くして市議に立候補した時、若い事を危惧する地元に対して、私の父が「あれは本物だ」といったことで流れが変わったとか、私の姉の同級生とか、私の兄の湘南高校時代の1学年下とか、いろいろ個人的にも難しい市長選でした。
 ただし市長選の後はお付き合いもあり、昨年も拙宅にお出でになり昔話をさせていただきました。
 一番の思い出は、戦争中高座工廠にいた台湾少年工の皆さんから台湾にお招きを受けた際(もちろん自費で行きました)、石川さんからある方との食事に誘われ、私の投宿しているホテルにわざわざタクシーで迎えに来てくれたことでした。
 そのある方とは、司馬遼太郎の『街道をゆくー台湾紀行』で、司馬遼太郎が“老台北”と呼び、大変お世話になった“蔡焜燦さん”です。
 私にとってはとても貴重で嬉しい体験でした。
 ご興味のある方は、司馬遼太郎の『街道を行くー台湾紀行』と蔡さんの『台湾人と日本精神』を是非お読みください。

 そうそう、甘利さんでしたね?
 安藤博夫さんと甘利さんの関係も、こうした流れの中からも御理解できるのかなと思います。

 私と甘利さんとの交流が少なくなったのは現職の市長でなくなったから当然ですが、時には人に頼まれ紹介せざるを得ない時もありました。
 そういう時、私は東京事務所の河野秘書を経由してお願いしました。
 その理由は、今回の事件の中心人物である清島秘書はなんとなく胡散臭い感じがしたことでした。
 私が人を紹介する時の基準は、お土産は菓子折り程度にすることでした。
 甘利さんご本人は超多忙なので、パーティ等で会った時か電話(内閣府へ)で話すだけにする。
 もちろん、大臣室には公人としての市長現職当時の陳情や表敬訪問ではないので、遠慮する。

 長くなりましたので「その2.」はここまでにしますが、最後に、甘利さんがよく色紙に書いた言葉「得意憺然 失意泰然」について。これは明の朱子学者崔銑の「六然」の一部です。
 まさに甘利さんは経済再生大臣としてTPP交渉に尽力されていた頃には得意であっても“憺然”としていたのでしょうし、失意の現在は“泰然”とされていることと思います。
 自戒の言葉だったんですね?

 最後の最後に、私から甘利さんと清島秘書に「戒石銘」を送ります。
 この言葉は後蜀の名君・孟昶の言葉と言われており、私が市長当時よく職員に「公務員が心がけるべき事」として紹介しました。

 「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 (爾の俸 爾の祿は 民の膏民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し)」
 訳も必要ですか?
 「お前がお上から戴く給料などは、民の汗と脂である。下々の民は虐げ易いけれども、神をあざむくことはできないのだぞ。」

 清島秘書は公設秘書で、我々の税金から年間一千数百万円の給料をもらっていたはず(甘利事務所に上納していないなら・・・)。
 もちろん甘利さんの歳費、調査費、大臣手当、政党助成金、全て民の膏であり民の脂である。
 やっぱり、天は欺けないのですね?

written by kimiyasu [ツッチーレポート] [この記事のURL] [コメントを書く] [コメント(0)] [TB(0)]

この記事へのトラックバックPingURL

Comments

TrackBacks

土屋きみやす−ツッチーレポート

MySketch 2.7.4 written by 夕雨