土屋きみやす−ツッチーレポート

2019年5月27日(月) 22:00

源頼朝・義経と、我が始祖土屋三郎宗遠の事など

 頼朝が永い間配流されていた伊豆韮山の蛭ヶ小島に近い函南に別荘(?小さな家)があり、20歳代の後半から夏ともなるとよく家族や姉の家族たちと行っていた。
 更に、頼朝が挙兵した際の石橋山や、合戦で敗れ房総半島へ逃れた真鶴半島など、伊豆半島一帯は私の好きな第2の故郷のような地域であり、頼朝(と北条政子の一族)に関わる場所が至る所にある韮山周辺はいつも近い存在だった。
 もっと言うと、土屋という氏(苗字・姓)の始めは“土屋三郎宗遠”という頼朝側近の一人であり、石橋山の戦いで敗れた後、房総方面へ真鶴のシトドの岩窟から「七騎落ち」した中の1人だったのである。
 残念な事に、その後も守護や御家人としてあまり後世には活躍しておらず、それほど歴史に名を残してはいないが、私にとってその時代はとても関心がある。
 因みに毎年5月8日に、今でも平塚市土屋では「土屋三郎宗遠墓前祭」が営まれており、私も参列させていただいている。









毎年平塚市土屋の大乗院にある墓所と本堂での法要に参列

 さて、その頼朝である。
 昔からいくつかの疑問があった。
 @ どうして20数年も配流(島流し)されていたのに挙兵したら、房総半島からドンドンと兵力が集まって数十万人の平家打倒勢力になったのか?
 A そもそも、源氏と平家とは?
 B 義経はどうして兄の頼朝に冷たくあしらわれた(腰越から鎌倉に入れてもらえなかった)のか?
 C 頼朝に挙兵を勧めた文覚上人や西行との関係は?
 D 鎌倉幕府は源家3代以降は北条の時代となって、そののち後醍醐天皇や楠正成、新田義貞などからの倒幕の対象になってしまったのか?
 E この時代の天皇、上皇、法皇とは? などなど。

 で、それらの疑問(というか私の無知)を晴らすために、三田誠広の『夢将軍 頼朝』や司馬遼太郎の『義経』、山岡荘八の『源頼朝』(全三巻)を読んでみた。本来ならば『東(吾妻)鏡』など原典を読むべきであろうが、最近は安易に小説に手を出してしまう、が、それはそれで面白い。
 とりわけ司馬遼太郎の独特の断定的な書き方には思わず声を挙げて笑ってしまう時があった。

 今回は写真を掲載し文章は短くした分、更新を早めにしたいと思いますが、何処までお読みいただけるか、アクセス数が17万件に達しましたら、しばらく休止させていただきたいと思います。申し訳ございません。



令和の新天皇が昭和の時代。従って皇太子の前の浩宮さまど呼ばれいた頃、土屋三郎宗遠の墓所においでいただきました

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