土屋きみやす−ツッチーレポート

2019年6月18日(火) 13:56

永い間ツッチーレポートをご高覧頂き、有り難うございました。

 源頼朝に関しての続き。
 土屋三郎宗遠は鎌倉幕府開幕と同時に地頭職になり、御家人として地位を高めていったが、源が三代続いた将軍の後の(執権)北条時代には宗遠達のような御家人(外様のような立場)と、北条氏の惣領に使える御家人(“御身内”)とが対立するようになってしまった。
 山木代官襲撃や石橋山の戦いなど最初の源氏の旗挙げから、富士川の戦い、木曾義仲追討軍でも範頼・義経に従って戦い、さらには義経の一の谷・屋島・壇ノ浦の戦いにも加わり、また藤原泰衡の追討軍にも加わるなど多くの活躍をしたが、頼朝没後10年経った承元元年(1209)の「和田義盛の乱(和田合戦)」で、養子(宗遠の姉の子・甥)土屋大学助義清は首謀者の一人となり、他の土屋一族5人と共に討ち死にした。

 これで鎌倉時代の土屋一族は歴史から退場して行った。

 歴史の「IF]だが、もし守護や地頭として他の地に任じていれば、薩摩の島津(鎌倉・頼朝の一族)や中国地方の毛利(厚木の毛利庄の出)のように、戦国時代や江戸時代には大名となっていたかもしれない。
 その後、武田の甲斐源氏と共に甲斐の国に行った土屋一族の中には、武田二十四将の一人土屋右衛門尉昌次(長篠の戦いで信玄に殉死したかのように戦死した)や、その弟で武田家が滅亡する天目山の戦いで最後まで勝頼を助け、死闘を繰り返した(惣蔵片手千人斬りや三日血川で有名)土屋惣蔵がいる。
 江戸時代になって編纂された武田家の軍記『甲陽軍艦』を読む限り、長篠の戦いで死んだのは殉死のようであり(土屋昌次はそう言って死んだ)、24将のうち7名が討ち死にしている。

土屋―族は、どうやら最後は負け戦のような死に方である。血は争えない。
 鎌倉の寿福金剛禅寺は義清が討ち死にしたところで、お墓もあるというのだが所在は不明とのことである。このお寺には北条政子や実朝のお墓、また、陸奥宗光のお墓もあり、私の大好きなお寺で、何度も訪れている。
 土屋惣蔵の“武田家滅亡の地”は山梨県大和村(現在の甲州市)で、そこでは毎年「勝頼公祭り」が行われいる。ある年には請われて勝頼公に扮し、鎧兜姿で馬に乗り、パレードをし、ステージで鬨(とき)の声(「皆の者!いざ出陣じゃ!})を挙げさせていただいた、懐かしい思い出である。
 家紋に関して見ると、土屋宗遠は「三つ石畳」、土屋昌次の旗指物は「鳥居」で、我が家は「横木瓜(よこもっこう)」。 直系ではないが、過去帳を見る限り400年以上住んでいるここの下鶴間は、鎌倉や平塚大住郡土屋にも近く、武田家が滅亡後の落ち来る先(甲州街道→境川→大和)としても理解し易い。

 さて、皆様にはどうでもよい事ばかりを最後に書き記しましたが、これからの残りの人生を考える時、さまざまな歴史を調べ、書く(論文か駄分か解りませんが)ことを行っていきたいと念願しております。もしまたお読みいただける機会がございましたら、是非お目通しをお願い申し上げます。

 永い間ご高覧賜り、本当にありがとうございました。

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